地震のすぐ後、
1978年の宮城県沖地震の体験
そして阪神淡路大震災の給水の
普及支援作業へ神戸市へ行った
経験から、
しばらく大変なことになると思い
対応していくことへの覚悟を
考えるようになっていました。
まさか津波が押し寄せるなどとは
まったく考えもしませんでした。
会社に戻ってくる社員を帰し
遠方にいて戻れない社員は
そのまま自宅へ帰るよう指示しました。
翌朝、全員が出社しました。
津波被害があったことなど
少しずつ情報が入り出し
想像を遙かに超えた被害である
ことだけ分かるように感じです。
我々が何もできないのであれば
しばらく様子見として
社員に自宅待機を命じたことでしょう。
しかし、我々は
住まいづくりを生業にしていることで
住宅に関して様々な対応力を有しています。
そこで、何ができるのかを考えながら
営みを継続するために
必要となる物資の調達を手配しました。
12日には
電話が不通だったことで
店にお客様が次々に集まってきました。
住まいの修繕等の依頼です。
すぐに対応できないため
受付のみしました。
体制を整えながら
対応できることから進めていく
という判断です。
次の図は
1ヵ月間の修繕等の受付の推移です。
受付停止とあるのは、
業務対応がオーバーフローしたこと
刻々と変化する状況に対応することなどから
改善する時間が必要だったからです。
その間も応急処置作業は進めています。
次の図は、
無料で対応した応急処置作業の件数です。
屋根のブルーシート掛け、
漏水や瓦礫除去などの対応など
被害を拡大させないための応急処置です。
震災後からこのような動きをしました。
この間、すぐに対応できず
お待ちいただく日にちが長くなったり
ミスがあったり
ご期待に十分にお応えできないなどが
ありました。
10年前を振り返ると
やったこと、やれたことよりも
やれなかったこと
できなかったこと
不十分だったこと
などの方が強く心に残っているようです。
どうしてなのでしょうね。
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